ベネチアの夜
人の話し声というものは 時に不快に感じる時もあるが、場所によっては 心地よく感じられるから不思議だ。
カフェなんかもそうだと思う。
カチャカチャとコーヒーカップとスプーンが触れ合う音と人々の話し声が混ざり合ってなんとも言えない心地よい雰囲気を生み出す。
もう かれこれ20年くらい前の話になるが、友人とベネチアを旅した時のこと。
その日 宿泊したのは、「プリンチペ」という名のホテル。カナルグランデ沿いにあり、サンタルチア駅から5分という 旅行者には便利な立地のアンティーク感が漂う素敵なホテルだ。
フロントで渡された カギに付いていた真鍮のキーホルダーは ずっしりと重く、釣鐘のような形をしていた。
その形は私の手のひらにすっぽりと収まり、冷んやりとしていて あの感触はいまでも忘れられない。
そこに刻まれたPrincipeの文字がまたいい味を出していて、私は指でその文字を何度もなぞった。心の中にきざみこむかのように。
ずっしりとした木製の扉のエレベーターに乗り、案内された部屋は、まるで古い映画のワンシーンのようだった。
部屋のまどを開けると、異国の人々の話し声がして 日本から遠い国に来たんだな…としみじみ感じた。
その話し声は 一晩中聞こえていたが、不思議と心地よく感じた。
その当時は携帯電話なんて普及していない時代。
もし、今のような時代だったら絶対に携帯に録音したかったと思うほどに 心地よい音だった。
人の話し声や 食器などの触れ合う音は、時として 何とも言えない 心地よさを生み出すのだ ということを感じた。
遠い異国の夜に。
ベネチアの あの美しい運河の風景は
今でも心の中で色あせる事はなく、夕日に照らされた運河の中、 ゴンドラにゆられながら聞いた陽気なカンツォーネが20年経った今でも私の心の中に響いている。